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インタビュー連載「教えて先生!」
進路部長 中川甲斐先生 編(其の壱)

インタビュアー:​令和五年度 PTA「緑会」会長 植田敦

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神大附属生のポテンシャルは高い

だから、大学受験の意味をもう少し考えてもらいたい

―本日は、進路部長をされている中川甲斐先生に、多くの保護者が聞きたいと思っている神大附属生の受験事情や、それ以外にも学生時代や先生になられた経緯などインタビューさせていただきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

 

こちらこそよろしくお願いします。

 

―中川先生は本校出身でもあり、同僚先生の中には附属時代の先輩後輩もいらっしゃって、その時代の面白い話をたくさんお持ちであったり、小4までは “綱島の神童” と噂されるくらい頭脳明晰だったのに、中学受験の日に違う学校に行ってしまった話しや 、大学生時代には某有名塾の講師としてその塾の看板授業を任されていたりと、どの話題から掘り下げていけばいいか分からないほどのネタの宝庫なのですが、まずは保護者が一番聞きたい進路部長としての側面から伺っていきたいと思います。

分かりました。そうしたら、なぜ、今のセーターやベストが指定されるに至ったのか、その原因を作った某先生の学生時代の服装の話は今は控えましょう(笑)

―それはうかがっても記事にできませんので(爆笑)

気を取り直して、、、、ここ数年コンスタントに東大に複数名合格するようになってきましたが、中川先生から見て、最近の大学受験の結果と、今の在校生の受験予測をどう分析していらっしゃいますか?

 

これは多くの保護者の皆さんに知っていただきたいのですが、私もここの卒業生としてこの学校の凄いと感じているところは、部活にしろ何にしろ、中学・高校と好きなことを突き詰めてやることができる。その一方で勉強も頑張る。その結果が東大なんです。もちろん東大を全員が目指す必要はありませんし、東大行くことが全てではありません。今言っている“東大”というのはメタファーですが、超進学校と言われるところとは、そういう意味ではすこし考え方が違うかなと思います。

―なるほど、それは大塚禎先生も岩佐先生もこのインタビューで同じことをおっしゃっていましたね。神大附属に通っている間に、何か自分の好きなことを見つけて、それを一生懸命追求して、その好きなことへの情熱の炎が、勉強に対する導火線にも火をつけるんだと。

そうです。そもそも、うちの生徒のポテンシャルは高いんですよ。

だからこそ、大学受験というものをもう少しよく考えてもらいたいんです。「受験は手段であって目的ではない。受験はひとつの通過儀礼(イニシエーション)である」ということを生徒と保護者の皆さんには理解してもらいたいですね。

―受験が人生の最終目標なわけがないですもんね。とは言えですよ、先生、目標の大学に受かるのと落ちるのでは違うと思うんですよね。保護者としては「受かることが命題なのが受験である」と考えていますから。

大学受験は、合格・不合格の

単純な2パターンではない。。。。

確かに受験は極論、「合格」と「不合格」の二つの結果に収斂していくものなので、合否は常に五分五分である!とあえて言っているわけですが、もう少しだけ真面目に言えば、その「合格」と「不合格」もそれぞれこんな感じに分化されるはずなんです。

「合格」   

  → ①しっかり努力した結果合格

  → ②努力してないけど合格

 

「不合格」    

  → ③しっかり努力したのに不合格

  → ④努力してないから不合格    

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なるほど。そう聞くと、「合・否」はただの単純な2パターンじゃないということが分かりますね。

 

そうなんです。ただ大学に受かればよい、ということだと①と②で良いのでしょうが、生徒の長い人生で活きていくのは①③④のパターンだと思います。①は説明不要でしょうね。この大学受験をひとつの成功体験として今後の人生に活かして下さい、ということでおしまい。④も同じでこの手痛い失敗を糧にできるかどうかは本人次第ではありますが、そう変なことを言っているわけではないでしょう。で、個人的に一番価値があると思っているのが、③(しっかり努力したのに不合格)のパターンです。

ー一番キツイパターンだと思うんですが、、、、

そうです。めちゃめちゃ努力して頑張ったにもかかわらず、残念ながら希望が叶わなかった場合、その憤りをどこに向けていいのかわからないですよね。まあ、社会のいろいろなところに不条理は顔を出すものだ、と言ってしまえばおしまいなのですが。。。

でも、これは「その大学に受かりたい」ということが前面に出すぎている場合に強く生じるように思います。

ー強く思いすぎるくらいに受かりたい大学があることはこ良いことなんじゃないでしょうか?

保護者の皆さんも高校時代を思い出してほしいのですが、「自分は将来こんなことを通して社会貢献したいから、○○大学で△△を学びたい」という具体的な動機をもって受験をしていたでしょうか?それが理想だといわれていますが、正直なところ、そんな子は圧倒的超少数でしょう?こう言うと立場的にはあまりよくないのかもしれませんが。。。。。

ー確かに、同級生でも、医学部などの専門学部を目指す子以外は、先生がおっしゃるような“崇高な”思い・イメージみたいなものは持っていなかったし、医学部志望の子も「親が医者だから」っていう子がほとんどでしたね。

それが普通だと思うんですよ。社会をほとんど知らない子供たちは、少ない情報の中で、「そんなものかなぁ、、、」 「こんなものかなぁ、、、」 ということで大学選びをします。当初は崇高な想いを持つ、というか持たされていた部分もあるのかもしれませんが、でもスタートがそもそも 「そんなものかなぁ」 というところなので、崇高な部分はさまざまな理由で抜け落ちていくわけです。きっと最初はうまく隠せていた「見栄」とか「打算」、「メンツ」、「プライド」的な部分が見え隠れしてきたりします。そしていつの間にか気づいたら「○○大学に入りたい」というのだけ残ってしまうと、受験結果は目標達成をしたか否かの二分法で評価されるものになってしまうわけです。これはとてももったいないことだと思っています。

ーなるほど。たとえ「そんなものかなぁ」というレベルで考えたイメージであったとしても、高校生としては精いっぱいその時に考えた結論なのだから、プライオリティーとしてはその部分、つまりカギ括弧付の「”崇高な”思い」であるべきで、大学の名前が優先順位の一番になってしまうのがおかしいという事なんですね。

まさにおっしゃる通りです。

時間とお金(と多くの勉強に費やす気力体力etc.)をかけてわざわざ大学で難しいことを学ぼうとする、そのやる気の根っこのところは本来「将来こんなことを通して社会貢献したい」とか「大学でこんなことを学びたい」ということだったはずです。

でも受験の結果、そこで学ぶことは出来なくなり、その代わり行くことになった(なってしまった)大学では納得できない、なんていうこともあるのかもしれません。

ー私だったら、これまでの自分を全否定されたかのように感じて、これまでの全部が無駄だった、とかそんなとこ行っても意味がない、なんて言ってしまうかもしれないですね。

まあ、納得できない、というのは分かります。かけたコストと見合わない報酬だ、と感じてしまうのでしょうから。でも価値がないとか無駄だったというのは違うと思います。価値とか意味は最初からあるわけではなく、それらは人がどう定義づけ生み出していくかにかかってくるものです。そこは確かに当初行こうと思った大学ではないけれど、やろうと思ったことやそれに近いことはできるでしょう。もしかしたら当初希望していた大学以上のことが出来るかもしれませんよ。

ー大学教育を知っている人であれば、神大附属生の合格ラインの大学であれば、どの大学でも教育内容に大差はなく、そこで「どれだけ自分に学ぶ意欲があるか」のほうがよっぽど重要だということは自明ですもんね。私の経験談ですが、大学の各講義で一番質問する生徒たちがテストのときだけいなくなるという“怪奇現象“をよく見かけました(笑)。今はオンライン授業や、少数講義を売りにしている大学もあるので、昔のように”モグる”こともできなくなりつつあるかもしれませんが。。。

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どこの大学に受かるかはコトの本質じゃない

大学受験の合否をゴールとしない生き方、在り方

そうです。やる気があれば、今は昔より勉強する方法が沢山そろっています。だから、どこの大学に受かるかはコトの本質じゃないはずなんです。その可能性というか、次善策的な発想や行動を邪魔してくるのが、受験、もっと言えば合格の目的化なんだと思います。当然のことですが、志望校に合格することは素晴らしいことですし、それを目標に頑張っていく美しさは間違いなく存在していると思います。見事志望校に合格した、となるのはとても良いことです。

ここでわたしがお話しているのは、しかも高いレベルでの受験は大きく時の運が作用してくるという前提のもと、万が一そうならなかった場合、いかにその辛く悲しい経験を“次”に活かせるか、活かしていこうとするかという姿勢・スタンス・価値観・マインドセットについてです。故事成語の「臥薪嘗胆」ではありませんが、決して大学受験の合否をゴールとしない生き方、在り方というものを養っていきたいのです。そういう、“起き上がり小法師”的なというとイメージしやすいのですかね? そんなチャレンジングな人材をいかに輩出できるか、というのが進路部長である私のテーマとして考えていることです。

ー「東大一直線」のような、大学名ありきで受験するのではなく、その先を見据えた受験という“新しい受験とその合否に対する価値観”を語っていただきました。お話を聞いて、中川先生が目指している大学受験という“儀礼”は、失敗したらそれでおしまいの“受験勉強“ではなく、自分の目標を成し遂げる”人生のマインドセット“であることもわかりました。進路部長という肩書の中川先生からは、「どうやったら第一希望に合格できるか」という話をお聞きしようと考えていましたが、その意図を読んだうえで、あえて逆方向からのお話をされるあたりが、“綱島の神童”の真骨頂といえるインタビューでした。

次回は、大学受験で合格に気付かなかった ”珍”エピソードを含め、中川先生の面白いエピソードを深掘りしていきます。

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